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カテゴリ:読書( 9 )

本日H27.7.3読了。もう少し煮詰めてからアップしたかったのですが、どうしても今日書きたくて。


久しぶりに読書文の投稿です。
いやはや、今から思うに、もう少し早く読んでおくべきでした。
トルストイの作品は『戦争と平和』が有名ですが、『アンナ・カレーニナ』もまた代表作の一つです。
この作品は最近ではロシアの女子フィギュアスケーターのリプニツカヤ選手が愛読書として挙げていますが、いくらなんでも十代の女の子には少し早すぎる内容かな、と、とっても簡単な光文社新訳文庫を読んでも思ったのでした。
私なら文筆趣味でもない限り、読者の対象年齢は30~40代で、できれば既婚女性を想定しますね。『戦争と平和』のほうはもう少し若い人が読んでも大丈夫だと思うのですが。
魅力的な貴族の夫人アンナは、若い美貌の将校ヴロンスキーに出逢い、道ならぬ恋に堕ちる。彼女の恋の行方は……、という内容なので、ちょっとゴシップ的な興味を持つ人が食いつく話かな、とも実際思うのですが、トルストイは文豪です。文豪ですのでただのゴシップ話では終わらせるわけもありません。

この小説はアンナの絶望的な恋物語と二本立てで不器用な青年リョーヴィンの成長物語も描かれているのです。
トルストイやドストエフスキーといったロシアの文豪は、不器用で自意識過剰で感性鋭敏な若者を描写するのがともかく上手です。このリョーヴィンという青年も、内気で要領が悪くいこじで頑固で実際には保守的なのに若者らしく進歩的なものを見たがり、鬱陶しいまでに自己や自己の抱える様々なテーマを頭の中で逡巡し、無節操なモノローグを物語中にまき散らす天才です。作中で他の登場人物や或いは地の文で何度か彼の明晰な頭脳について触れられていますが、このフォローがなかったらいわゆるちょっと残念な人、というレッテルすら貼られかねない人です。
リョーヴィンとアンナはどういった関係かというと、まず、アンナの兄にオブロンスキーという人物がいます。この奥さんはドリー(ダリヤ)という女性で、ドリーに二人いる下のほうの妹がキティ(カテリーナ)といい、このキティの夫がリョーヴィンとなります(物語の開始ではまだリョーヴィンはキティにプロポーズすらしていません)。つまり親戚関係ですね。
ところが、昔の貴族社会ではありがちなことなのですが、いくら親戚同士とはいっても、交友のある人とない人はいるわけで、作中でアンナとリョーヴィンがきちんと対話をするのは一度しか機会がないのです。二人を取り巻く社会はそれぞれ異なっていて、アンナがヴロンスキーとの恋愛により社交界を追い出され、孤独になっていく一方で、片田舎で要領の悪い地主生活を送っていたリョーヴィンは憧れのキティと結婚を遂げ、息子も授かり、よい親戚の中で多くを学んで次第に幸せを掴んでいくのです。

物語のタイトルではアンナが主役のように描かれていますが、ストーリーの始まりも締めくくりも、ほぼリョーヴィンサイドが展開されていますので実質この物語は『コンスタンチン・リョーヴィン』であるべきではないかと私は思うのですが、これがまたそういった意味のお話ではないのですね。
物事は、当たり前のことを当たり前に接していたのでは、人は大抵の場合、何にも気づきません。一分間に何回呼吸するかも、空気の成分も、気温も湿度も、「はた」と気が付く瞬間がない限り私たちは意識しないのです。
当時のロシアの人々がリョーヴィンサイドの物語だけ読んだら、何の感動もなかったのではないかと私は思うのです。なぜならばリョーヴィンの思索は深く堂々巡りを続けていて大変に面倒くさくしかも空の雲のように刻々と姿を変えていきます。読み方によっては退屈な人物のありきたりな行動を描写しているだけで何のドキドキ感もありません。
そのドキドキ感がないのがロシアの日常であり、ありきたりの平穏なのです。その平穏はどのように人々が認識しているのか或いは空気として消費し続けているのか、人々は己を振り返るようなことはないのです。
しかしアンナの存在は、非日常です。物語でロシアの日常を代表する常識的人物として位置づけられているのがリョーヴィンの義姉でありアンナの兄嫁であるドリーなのですが、このドリーの深い友情をもってしてもアンナはどうしても浮いてしまう存在です。アンナの恋愛は常に力強い自由であり、その感覚は時代を間違えた自由であり、それがアンナを滅ぼすのですが、ドリーはアンナを深追いせず、また恨むこともしません。それでいて、ドリーを、リョーヴィンを、キティを、総ての人々を包み込む、アンナのいない終盤の空気は何と美しくのどかなことかと感動を覚えるのです。

アンナは悪女だったのか、という議論もあります。
しかし何でもそうですが、時代を間違えた人というのは得てしてその場ではひどい汚名を着せられたり罵られたりするものです。しかし21世紀の今、アンナ・カレーニナの生き方を選択するような女性はむしろ古典的で少数派です。なぜなら現代のわれわれならすぐ気づきます、物語中で本当に何度もやり直す機会がアンナにはあったのです。ヴロンスキーはどんなに美しく優秀でも、夫とするには足る器がなかったこと。あまり容姿の良くなかった夫のカレーニンは、しかし誠実で真面目な人物であったこと。ヴロンスキーとの生活は浮ついて贅沢なばかりで、全く現実感や落ち着きがなかったこと。
この貴重な数々の経験からくるたった一つの回答を壊れていきながら悉く無視し、最後にドリーと物別れに終わった瞬間で、もう彼女には何も残っていないことに読者は気付かされます。

私はこの読みやすい、光文社の古典新訳文庫しか読んでいないのですが、作者トルストイは第四章あたりの段階で早くもアンナに嫌気がさしていたのではないか、と少し思うのですね。ヴロンスキーとキティの描写にかなりの差が出ていることからもちょっとそれを感じてしまいます。
個人的な好みを言わせてもらえば、私はどうもこのキティは好きになれません。悪い子ではないしリョーヴィンには意外とお似合いなのですが、ちょっと見かけだけの落ち着きのない末娘といった感じで、このキャラクターは『戦争と平和』のナターシャにも通じる可愛らしさなのですが、もうここまでくるとトルストイの好みなのかなーとか穿った考えに至ります。
ヴロンスキーも、本来はただの愛人の立場ですのでもう少し単純な人物塑像であったはずなのですが、物語の都合上、いろいろと後手後手で練っていった感じがして、どうにも安っぽい(アンナサイドの物語で、アンナが作者の当初の予想を超えて勝手に動きすぎた結果かなとは思いますが)。そしてヴロンスキーにトルストイの筆は、冷たい(笑)。
しかし、アンナは物語の骨子を成す大事な人物なので粗末には扱えない。そういった苦悩が《解説》で訳者の望月哲男氏が「複数のプラン/複数のアンナ」の中にトルストイのこっそり思考としてちょっと忍ばせていたかどうかは、私は知りません。知りませんが、そうだったら面白いなあと思うのです。


なお、この長編小説において私がもっとも心に残った台詞を最後にあげて、今回ちょっと長くなりましたが読書文を終えようと思います。理由は敢えて書きません。
三巻、第六部16章。心から血を吐くような、ドリーのモノローグです。

「これはすべて何のためだろう? こんなことをしていて、いったいどうなるのだろう? わたしのように、ひと時も休むまもなく、妊娠して、授乳して、いつも苛々して、愚痴ばかり言って、自分も苦しめば人をも苦しめて、夫に嫌われて一生を過ごした結果として、育ってくるのは不幸な、育ちの悪い、貧しい子供たちじゃない。(中略)結局わたしは自分の力で子供たちを一人前にすることはできないで、卑屈な思いをして人の世話にならなくてはいけないのよ。いちばん幸せな場合を想像してみても、もう一人も子供を亡くさないで、何とかわたしが育て上げることぐらい。せいぜい子供が不良にならないくらいで上出来だわ。それくらいがわたしに望めること。たったそれだけのために、どれほどつらい、苦しい目にあってきたことか……一生が台無しだわ!」

レフ・トルストイ/望月哲男 訳『アンナ・カレーニナ』光文社新訳文庫

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by kou_ten_nen | 2015-07-03 23:41 | 読書
H24.冬読了。

菊池寛という戦前の作家は、現在の文壇の権威を創始した人物の一人という大変に偉い方なんですが、雑誌「文芸春秋」の創始者である彼の書いた小説は、さて、いかがなものであっただろうかと、経済方面から教養書扱いでこの本を手に取った方は、恐らくその人物表現の豊かさに目を瞠るのではないでしょうか。

新潮社文庫から出ているこの巻には、以下の短編が纏められています。
『恩を返す話』
『忠直卿行状記』
『恩讐の彼方に』
『藤十郎の恋』
『ある恋の話』
『極楽』
『形』
『蘭学事始』
『入れ札』
『俊寛』
タイトルを見て分かるとおり、概ねが時代小説の形を取っています。難しいかも、とっつきにくいかもと思った方は大丈夫です。少しでも分かりにくそうな言葉や背景が読めなさそうな記述には丁寧な注釈が加えられています。

なんだか時代小説というと型に嵌まった勧善懲悪だとか人情や心中がどうだとか封建制がどうのとかいうおなじみの展開ばかり考えてしまい、ライトノベルと同じで作家の本来の性格など分かりづらくなるだろうと高を括っていた私だったのですが、殊この一冊に関していえばその考えは明らかに間違っていたということに気付かされます。
ここに出てくる人物は侍から平民まで様々です。また時代小説にありがちな義理人情に溺れきってしまっていないところも面白いところで、それでいて現代に生きる私たちの胸を打ちます。
表題作の、まず『藤十郎の恋』について。
売れっ子の、しかし女性に対しては極めて醒めている役者藤十郎が、その興行についてライバルにどうしても恋愛の上手い演技で勝ちたいと考えあぐねた結果、良妻で知られる知人女性を演技でたぶらかし、その演技を元に自分の舞台レベルを上げようと考え付きます。しかしその影で彼女は……という話。
一時の情で流されてどうの、という行動のある種の浅はかさを批判しているようにも私は読めてしまったのですが、しかし情そのものを菊池寛は否定しているわけではありません。
『恩讐の彼方に』という作品は、多少舞台もめまぐるしく変わって落ち着きがないのですが、これは親殺しの仇討ちフラグが完全に立ってしまっていた状況で、一人の男が憎き仇を殺さずに許すという行為に至るまでを淡々と書いています。
江戸時代では仇討ち敵討ちというのは武士の誉れであり、それを放棄するというのはとても恥ずかしいこと、端から見ても興ざめすることでした。歌舞伎で有名な赤穂浪士だって、あれは幕府側から見たら江戸城で乱心し刃傷沙汰に及んだ主君を大人しく弔うどころか主君を辱めたとされる人物の屋敷に押し入り首級を上げた不届きな浪人ども、という感覚なんですが、江戸の庶民たちは主君の敵を討ったまこと侍の鑑、と大変な人気だったそうです。
しかし「やらない仇討ち」ってのはその逆で評判が非常に悪い。ですからこの小説、大正8年1月に目を通した最初の読者たちはさぞかし微妙な気持ちであっただろうと推測されます。

大分県本耶馬溪町の青の洞門は、現在は車の通れる道路で通過を体験できますが、そのはるか上壁に、今でも当時多くの人馬の命を奪った「鎖渡し」という狭く恐ろしい道が一部残っています。山国川という川は一級河川ですが、極端に水量の多い川ではありません。ただ川幅が狭く淵も多く、上流にダムのなかった当時は急流であっただろうことから、中流域に属するこのあたりもあの高所から落ちたら、まず無傷ではいられなかっただろうとは推測されますね。
さて、奉公先で主人の奥方と密通した挙句、(事故のように描かれていますが)冒頭部で主人を殺してしまった市九郎は、逃亡先でどん底追いはぎの人生に自らが染まるのを踏みとどまり、頭を丸めて托鉢僧となり、九州は豊後までやってきました。そして鎖渡しの無常を知り、岩盤突貫工事を始めるのですが、主の奥方と密通した情というのが洞門というひとつの意思に纏まる姿が作品の第一部として完結しているとも言えます(別に第一部、第二部と本文で分けているわけではないんですけど)。
そして第二部からは苦難の工事風景が延々と描写されます。
情に流されて手伝う人もいたけれどもそれも続かず、一人また一人と去っていきます。しかも、工事の困難さにすっかり忘れていた江戸の事件、殺害した主の一子実之助が彼を見つけ出し仇討ち目的で訪ってくるわけですから、さて、どうなるか、という話です。
実之助は頭の弱い若者でもなんでもないので市九郎を討とうとやはり考えるのですが、しかし坊主なのに頭が工事のことでいっぱいで、なんの身なりも気遣わず、髪振り乱して鑿を振るう姿を見て段々と考え方が変わっていきます。ついには彼も手に鑿を手にし隣りで堅い岩盤を打ち始める、この心境の変化が大変面白く描かれていて、この短編の見所といってもいいと思うのです。
そしてラスト、ついに工事が完了して、老僧と仇討ち人は手を取り合って感涙に咽びます。それは不思議なことに義理人情的な情を超えた、しかしやはり情である感動を私たちに与えてくれるのです。
無論、菊池寛は解説でこうも言っているとされます。

「作者たる自分は、この作品の裏で、二十余年の精神を継続させた真念をもってすれば、大自然の磐石(ばんじゃく)でさえも、貫通し得る人間力の偉大さを語ろうとしたのである。云いかえれば、大自然に対しては、殆(ほとん)ど無力に等しく見らるゝ羸弱(かよわ)い人間の双の腕で、成し遂げたこの大偉業の前には、恩讐などの感情は、結局暁天の星の光の如く微弱であり、無価値であることを云おうとしたのである」(『文藝創作講座』第八号 昭和四年七月「主題小説論」)

ここまで解説されてしまうと、もはや身も蓋もないですねw
情というものに関して、硬派でストイックな筆致は他の作品にもよく表れています。菊池作品では情であるとか見栄であるとか義理であるとか功名心であるとか、こういったものが決して高圧的でも支配的でもなく、むしろどれも可愛らしく他愛のないものとして描かれていて、そこに私たちはある種の安心感を得ることが出来るのです。
読み物として個人的に非常に感動したのは『忠直卿行状記』で、面白く描かれているのは『極楽』『入れ札』でしょうか。特に『極楽』は星新一でも書いていそうなそこはかとないおかしみ、斬新さを感じます。
また、アニメやマンガ、映画などに熱中する女性なら思い当たるかもしれない『ある恋の話』も本当に戦前の男性作家が書いたのかと思うほどの自虐的な生々しさを感じます。
我々が当たり前のように守ってきた既存の価値観はそれほど大事だろうか、我が身わが心を賭すほどに大事なのだろうか、という問いかけに気付けたら、菊池作品は輝きを持って私たちを愛してくれます。

菊池寛『藤十郎の恋 恩讐の彼方に』 新潮社文庫


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by kou_ten_nen | 2013-06-10 15:07 | 読書
H24(2012).12.読了。

オースターの読みかけがまだ終わらないので、先にこちらを。
この小説は、読書好きを標榜している人が試される構造となっています。作者リョサはノーベル文学賞を近年受賞しましたが、ノーベル賞作家だから、というミーハー心で読むと、882円損をして終わります。
で、これは脅しでも何でもなかったりするんですよね。
私の所持している文庫がそれを物語っています。

上巻:2010.8.19 初刷 2011.5.16 第10刷
下巻:2010.8.19 初刷

2010年のノーベル文学賞は10月7日発表、リョサの名前は候補者に影も形もありませんでした。でも、この方の現代ラテン文学への功績って相当なもので、いつ受賞してもおかしくなかった立場だったんですね。文庫がバカ売れしたのは恐らくこの発表日以降で、でも下巻まで手を出せる人は少なかった、ということです。
なぜ読書好きでないと読めないのか、というとこの作品の構造の面倒くささにあります。いくつかの人物グループがそれぞれに、しかも時代も前後して殆ど野放図と言っていいほどに動き回ります。しかもその前後に注釈だとか導入だとか一切なし。誰が何をしたのか、を章ごとに把握していないと程なく本を投げる結果に終わります。
本作のあまりの難解さに、辛うじて読了できた私もネットで思わず書評を漁ってしまいまして、この『緑の家』という小説はどうやら、一章ごとに人物の行動をメモして纏めなければ全体像が把握できないのではないか、という結論に行き当たりました、つまり予備知識ナシで読み始めた人は最低でも2回この小説を読まなければならない、ということです。作品のために紙とペンをお隣に用意して。
ちなみに積読が山のようにある私は、まだその2回目には手をつけていません。

物語の空気の濃厚さは、さすが南米文学といったところでしょうか。古きよき20世紀半ばの砂漠と、密林。貧しい村の風景、密林の重苦しい暑さ、渦巻く陰謀と人々の欲望、そんなものを一つ一つ、無垢で残酷な視点で見出し、そこにどこかひどく悲しく愛を込める、そんな話です。
非常に深く物事を描いているのでどう見ても子供が読みおおせるものではないのですが、なぜか全体にはどこか知らない国の知らない童話のようなエッセンスもちりばめられています。
ラスト近辺で判明した恐るべき事実。最初に造られた緑の家がどうして焼けてしまったのか、その直接のきっかけとなる事件。事件というより、はっきり言えば犯罪なんですけれども。あそこまで自力でたどり着けた人だけが「うわあああ……」ってキモチになりますw 
ですからネタバレもネットで散々書かれていますが、あえて検索せずに自力で読みましょう。あれは多くの人物の一見無関係そうな会話や行動を何層にも重ねて理解しないと得られない感情です。


バルガス・リョサ 緑の家(上)岩波文庫
バルガス・リョサ 緑の家(下)岩波文庫


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by kou_ten_nen | 2013-05-28 22:11 | 読書
H25.5.3読了。つまり昨日読み終えました。

海外小説が私は結構好きで、気持ちを切り替えたいときなどにふっと書店で購入することがあります。こういう本はハードカバーで、比較的近年に出たものが多いですね。
ポール・オースターはアメリカの作家で、しかし私は殆どアメリカ文学には親しんでこなかったので、多分この作品というのはちょっとある意味読書分岐点になったかもしれないな、と読後そのように感じ入っています。それぐらい、面白い作品でした。底本は2003年発刊、訳者は柴田元幸で初版は2010年9月となっています。

長い入院を経て生死の境目から復帰したある中堅作家が物語の主人公です。歩行もおぼつかなかった彼がリハビリがてら街を彷徨っていたところ、一軒の文具店に気がつきます。そこで手に取った一冊のポルトガル製の青いノートから、物語はゆっくりと円を描くように進み始めるのです……。

物語中物語、という手法を採り、様々な事象に主人公が立ち止まって考え、試行錯誤を繰り返す様は、たとえ趣味であっても小説を書いている人間にとっては身につまされることかもしれません。
この物語は創作者の一人である私にとって作家にとっての「未完」とはどういうことなのかも、先生のように教えてくれています。
ある有名な作家のエピソードで、彼はデビューが決まった後の最初の作業がそれまでに彼が書いてきた膨大な作品の束を処分することだった、というのがあります。誇張も含まれ、或いはまったくの嘘なのかもしれませんが、私はそのエピソードを事実ではないか、とずっと信じているのです。
実際作家志望者の未完作は、皆口に出さないだけで膨大な数に上ると思います。なんらかの障害にぶつかって筆が止まり、二度と先を書き進めることが出来なくなった多くの物語。生まれてこなかった人ならざるたくさんのわが子。
それを作家はどのように認知、対処するかというのも大事なことであると思うのです。

ポール・オースターはユダヤ系の作家で、作中で先の大戦のホロコーストにも触れています。生々しい、言葉に詰まるような生と死をめぐる多くのエピソードは、今私たちが当たり前のように享受している生の喜びというものにいかに価値があるかも暗に気付かせてくれるものであり、また同時に軽々しく生死を描いてもいけないことを戒めてもいるように、私には思えてなりません。それが正解かどうかは分からないのですが、ともかく私はそう思うのです。

「思いは現実なんだ」とジョンは言った。「言葉は現実なんだ。人間に属すものすべてが現実であって、私たちは時に物事が起きる前からそれがわかっていたりする。かならずしもその自覚はなくてもね。人は現在に生きているが、未来はあらゆる瞬間、人のなかにあるんだ。書くというのも実はそういうことかもしれないよ。過去の出来事を記録するのではなく、未来に物事を起こらせることなのかもしれない」
(p218)

この引用部をどう捉えるかは、読者が随分試されていると思うのです。特に、創作者としての読者はこれをどう解釈するか、という点においてかなり厳しい問いをなされていると思っていいのでは、と。

またラストのこの文も同様です。

けれども、涙があふれ出てくるさなかにも、私は幸福だった。かつてなかったほど幸福だった。それは慰めも悲しみも超えた、世界のあらゆる醜さと美しさを超えた幸福感だった。
(p238)

ここで言われている「幸福」って何ぞや?
ストーリー上で何となく掴めるそれとはまた別の意味が込められているように、私には思えてなりません。ああ、確かに主人公の作家は幸福なのだ、と微笑んで頷いてしまえる何かが込められているように。

ところで、私は輪廻転生というのは信じていませんが、これは昔人から聞いた話なのですがそのシステムというのは演劇の役者さんのように、ひとつの人生が終わったら今度は全メンバーが別の役を演じる、というようなもののようです。兄弟だったものが夫婦になったり、親子だったものが親と子の役を逆に入れ替えたり。
的が外れていなければ、私はこの作品はこういった輪廻にも言及しているようにも思えてならないわけです。そして言及しているだけでなく、「じゃあ読者の皆さんはこの輪廻って考えどう思う?」と問いかけているようにも思えます。
で、私は腹の中で答えるのです。「そんなもんないです」と。

……w

まあ、輪廻というものにしがみつく人類は生物としてはちょっと珍しい傾向があるのかもしれませんね。恐らく、しがみついているのは輪廻ではなく、全世界を構成するあらゆる秩序(タクセー)なのかもしれず、潜在的に恐れているのが混沌(カオス)なのかもしれませんが。
(ああ、今ちょっと調べたら、カオスってギリシャ語なんですね。)

以上、今回も子供みたいに好き勝手書いた読書感想文、でした!


(ポール・オースター『オラクル・ナイト』 新潮社)


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by kou_ten_nen | 2013-05-04 05:44 | 読書

掃除してて見つけたもの

読書カテゴリ、今回は番外。

引越してだいぶ経ちますが本棚の整理をそろそろ始めようと、今日は洋間の本棚をあれこれいじくってみました。

結構本が溜まっていて、しかも主婦らしくなくあれこれ無関係なものも突っ込んでいる惨状で、確かに主人からもよく叱られていたんですよねー。最近は買ったきりで不要な本を古書店に流すようなこともありませんでしたから、もー、どうしようもないわけです(--;
買ったら積読っていう行動を学生の頃は全然理解できなかったんですけど、確かに、仕事帰りにウサ晴らしのように本を買ったはいいけれども読む体力や時間まで残ってなくて、置いたきりとか本棚に突っ込んだきりとかあるんだなあ、ってこと。

でもその整理をしようかと不要本と残す本を分けていたとき、昔の設定ノートを見つけちゃったんですよね。2005年w

内容にいろいろ問題があって嫁入り先が存在しない、とある未発表小説の7年も前のあらすじノートなんですけれども。
最初書いたときのノリを忘れてない作品は、結構、後になっても思い出してちょこちょこ更新してるんですけど、どうやら私はそのノートの存在を何かが理由で忘れてしまったまま、本文更新を重ねていたようでした。

思いつきで作るせいもあり、こういうプロット関係だとか、設定資料の関係だとかはちゃんと纏めておかないとねえ、と、ノートすら結構散乱する私は思ってしまうのでした。これはノート整理用のノートでも作っておくべきかなw


あと、ホラーだったのがひとつ。
ドストエフスキーの名著のひとつに『白痴』ってのがあって、新潮文庫から上下巻で出ているのですが、実は今日の整理のときになぜか下巻だけ二冊も出てきました
一冊は平成8年の版、もう一冊は平成9年の版。
本のカバーはいずれも西武リブロのあのタイトルの書きにくい、模様の自己主張の強すぎるデザインのものです。
私の主人は文学を好まないのでドストもユゴーも知りません。
そして私はこういう古典な長編文学は、文庫であっても一冊結構な値段であることを知っているし、この作品を買った当初はあんまり文庫本にお金をつぎ込まない傾向があったので、ダブり購入なんて無駄なことをしたら必ず覚えていたものでした。それでも今記憶に残っているだけで1、2冊程度。
つまり私は『白痴(下)』を二冊も買った記憶がどこにもないのです……。ヒイ。誰の本だwwwww

カバーの背表紙の痛み具合からして私の買ったものは恐らく平成9年の版のものなのでしょうが、この平成9年版、ちょっと痛んでるんですよね。しばらくほったらかしていた私がいけないんでしょうが、平成8年の版は、斯様な理由で少々不気味なせいもあって、流すことにしました。
もしも、あなたの手元にそのいわくつきの本がやってきたら、即座に神社かお寺に行きお祓いなどをしてもらうことをお勧めしますw



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by kou_ten_nen | 2013-04-05 22:35 | 読書
だいぶ前に読んだ。多分10年くらい前です。
第121回直木賞受賞作。

佐藤賢一氏の作品と言うともう、非常によく練られたエンターテインメントというか、娯楽性の極めて高い歴史小説ということで、洋モノ歴史小説というと第一人者の一人に確実に挙げられます。

当時のもの知らずな私は、この作家の徹底した娯楽性と登場人物の動かし方の妙に、最初読んだ小説からこっち「うわあ世の中にはこんなにすごい人がいるんだ、どれだけがんばっても私にはとても敵わないわあ」と思っていたわけで、そりゃ直木賞だってお取りになる方なんだから土台から違う。
ラノベの西洋ファンタジーに物足りなくなった人にお勧めする作家の一人でもあります。本当に恐ろしいほど読者の立場を知って、歴史上の人物を実に贅沢に動かすのです。そしてそれが全然違和感がない。気が付いたら「わあ、面白かった」と思ってしまうわけで。

無論、佐藤賢一というと「あのエロい描写の」とかいう方もいるらしくて。ええ、まあ性描写はグロイ寸前まで書いていまして、うら若きお嬢さんの中にはちょっと拒絶してしまう人もいるかもしれません。

さて、実は今日ウィキペディアでイギリスのヘンリ8世について少し調べていたらまー、この小説を思い出してしまいました。
この時代の王侯貴族ってのは非情極まりなくて、しかも魔女裁判の時代も引っかかっていたので、王妃でもそうやって殺される時代でした。
この離婚調停はひどい条件が課されていて、しかも裁判は王妃側に勝ち目が殆どない状態です。
主人公の有能な、しかしある問題を肉体に抱えている田舎弁護士は王妃を弁護し切れるのか、それとも、というお話。

じわじわと張られる伏線、仕掛けられる謎、思わぬときに開示され、あっと驚かされる事実。実に素晴らしい、エンターテインメントバンザイ。


でもね、私はこの小説で何が心に残ったって王妃の人物描写なんですよね。
キャサリンが民衆に非常に大事にされた人というのは史実のようですが、佐藤版の王妃は王妃といえど、別に大変な美人でも、男そこのけの才媛というわけでもない。
ただ地味で優しく慎ましやかな、そして平凡な能力の奥方なんですね。
作中に王妃が書類のためにラテン語を訳すシーンがあるのですが、ただの一行もまともに訳せていなかった、という部分があって私は心を打たれたわけです。
今でも読める人の限られるラテン語は、当時知識階級、それも男性中心に学ばれた大変難しい言語でした。
そういう部分がやけに悲しくて、いまだに思い出してはじわじわとくるわけです。

是非お勧めです。春の夜に、どうぞ。

ちなみに、私はこれを思い出して「英国史とか、これ案外、面白いかもしれないなあ……」とか思い出しました。フランス史も、勿論好きなんですけどね。ちょっとこれは、趣味として取り組んでみたくなりましたね。だってハプスブルグ家ってこのあたり凄く鬼畜……、いえゴージャスで役者が揃っているんですもの。

楽しいことをいくつか思いついては、そのたびに実行しないと最近の私は持たないんで、めまぐるしい状態ですみません。

(佐藤賢一『王妃の離婚』 集英社文庫)


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by kou_ten_nen | 2013-03-23 20:00 | 読書

ちょっと泣き言など

ええ……。

泣き言なんですけどね。

小説とか、読んでるじゃないですか。そうすると、最初は読者の目で読んでしまってるんだけど、途中から必ず、書き手としての目で読んでしまったりする。

そんな、ある意味高慢な自分の癖が、私は嫌いです。
本当にどうにかなんないかって思う。素人の分際で。

自分が今手にしている文庫本の作者は、文壇にもきちんと認められていて、筆一本で何十年も生きているベテランで、自分とは月とすっぽんくらいの差があるというのに、どうしてこんなに自分は何か、ある種昔の物乞いの子みたいなプライドの高さを持って読んでるんだろうって。

こういう嫌悪感ってのも、実は昨今の小説界では段々、時代遅れになってきてるのだろうなってのは、否めないんだけどね。


最近は、自称作家志望の人の中にも手のつけられないワガママ者や勘違いが増えてきたって言う。
いやなんというかギャンブルに近い創作世界において確かに昔から「俺は天才」みたいに思い込む変な人はいたっぽいんだけど。

最近はもう、「創作やってるとモテるから創作って何にも知らないけど書いてる」→「俺は才能があるんだ」→「明日芥川賞用の小説書きだす予定」ってタイプの子が随分多いらしい。だから私は怖いから、天才とか才能とか突然話題に出す人との話は何かの挑発とかネタで遊ぶとき以外は完全に避けてる。
全然君子じゃなくても、危うきに近寄りたかねえもん。そんなん。


で、私は書けてるのかっていうと、そんな時に限って悔しいほど書き出せてない。だから泣き言。
仕事でいろいろと考えることが多い上に、かなり体力は落ちてるし、おまけに気温の変化による不眠。暁を覚えない春眠ってのはもう少し先にあって、3月は悶絶の眠り月と言ってもいいと思う。

自分が出来ないのに、物事に不満を漏らすなんてやっぱり、脇が甘いじゃないですか。

だから、(くどいようだけど)泣き言になってしまうわけです。


ベストセラー作家の小説は、やはり売れる方程式を踏んだ上で、上手にラッピングされている。
商売ですからね。これ一冊に、いったい何百人何千人の人の生活がかかってるんだろうって思ったらね。
それは、やはり考慮してないとマズイ。
下手でナマイキな書評を自分でも書いたりもするけど、重箱の隅つつくようなみみっちいことだけはすまいとは思ってる。

今週は、上手くすればその上手くもない書評を1本と、小説の続きを書くことになるかな。

予定がこなせればいいけれど。

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by kou_ten_nen | 2013-03-11 02:16 | 読書
H24.11.27読了。

記念すべき読書感想第一回はこの作品。
昔の作家というのは文章力がものすごく高くて、しかも探究心に富み、その上で読者を楽しませよう、面白がらせようという意欲が相当にあったのが素晴らしいし、そのいたずらっ子みたいなサービス精神につい頬が緩んじゃいます。

で、この安部公房(1924-1993)という方は、淡々とした緻密な、しかし都会的な切れ味のいい文体を武器として、不条理で不安定な人間の心を見事に掻っ捌いている(東大医学部出身だったそうですが)怪物のような作家です。
この本に収録されている作品が初出した昭和25年とか26年とかいう時代は、まだ戦後の焼け跡が残っていた時代で、引き揚げとかGHQとかがよく話題に上がっていたような頃でした。ところが、一度開いて中身を見ていると「これ昭和50年代初めくらいの作品でしょ」とか思っちゃうわけなんですよね。流石に平成の今の時代と比べると少し古いかな、と思える情景であっても、舞台が架空の世界に飛ぶと、もう今の若手が書いたものと描いた世界に区別がつかなくなってしまう。
同作家の名作『砂の女』でもそうなのですが、ともかく砂漠の砂の表現とか書きあらわし方とかが非常にリアルである半面夢幻でもあり、鮮やかに思えながらもどこかぼんやりと輪郭が砕けている、そんな奇妙な「触感」に戸惑うんですよね。これは、後世に膨大な数のファンが出てきたわけです。

優れた作家の名作と言われるものは、時代を越えて人々の心を捉えます。なるほど例えば紫式部の『源氏物語』の出来事や登場人物は今の世の中には存在しないってのは誰でも知ってる。しかしあの世界に描かれた繊細でその上艶やかな美しさ、しっとりとした感情の行き交い、夫として妻として、そして親として恋人として、それぞれの人々の心の動きというのまで昔風なのか、今とは何の共通点もないのかというとそうでもないんですよね。六条御息所のあの激しく仄暗い怨念であるとか、末摘花のときめきであるとか、今でも結構共感できる部分があるんですよ。

安部公房はつい20年前まで生きていた方なので(というかもう20年になるんですか。10年ぐらい前に鬼籍に入られた方だとばかり思っていました)もっと現代的だし、私たちにはわかりやすいのです。
全体に見られる夢の中のように落ち着きのない、様々な象徴。殆どを意味のない産物だと読み飛ばしてしまう瞬間もあれば、なんだろうと一字一句気を張って読み進めることもある瞬間もある。でも私の読みムラというのは、ラストで全部「ああ、作者に見透かされていたのか(´・ω・`)」といたたまれない恥ずかしさをも呼び起こしてしまうのです。こういう本当に作家として怪物みたいな方がまだ生きていらしたら今の呆れた世の中をもっと面白く描いてくださっただろうに、と悔やまれてなりません。

安部公房に影響を受けた作家一覧なんてのがあると、多分相当数が該当するんじゃないでしょうかね。ともかく面白いもの全部やったわと声が草葉の陰から聞こえてきそうな気もするくらいです。
安部が影響を受けたとされるカフカの『変身』も読んでいるのですが、どうでしょうね、骨組みだけ影響を受けたのかもしれないです。何か情の絡んだおかしみや切ない笑いのようなものは安部独自ですからね。勘違いなんかを面白おかしく書いたのはO.ヘンリーの短編なんかが有名ですが、あれとも全然系統が違うようですし。

「S.カルマ氏の犯罪」:悪夢を忠実に文字に起こしたらこういう世界なんだろうなと思います。文字の世界に溺れつつも、気が付いたら圧倒的な意味の混乱を整理しなければならず、どこから手をつけていいか分からずに私などは途方にくれ、しかもなんだか、その途方に暮れるのがどこか自分でおかしくなってくるのです。そもそもカルマ氏は実に平凡でつまらない欲求しか持っていないんですね。Y子とずっと仲良くしていたわけです。でも彼女は不条理の洪水のかなたに消え、名前をなくしたカルマ氏はただ無駄に壁となって--それは誰でも見え、誰でも目標とし、誰でも打ち壊そうとするものではないかというあの壁と同じではないのかという不安を私などは掻き立てられつつ--成長を延々と続けていく。これで物語はあっけなく、しかし見事なキレでもって終わります。

「バベルの塔の狸」:最初に気付いたことは、これ感想とは関係ないんですが、昭和25年のこの時代で既に詩人というのはこの国ではまともに飯を食えなくなっていたんだ、という事実の把握でした。
詩でご飯はなかなか食べないと聞きますが、実際ずぶの素人でも簡単に書くことだけはできるのですから、識字率とともに価値もそれは下がろうというもの。日本は昔から識字率は高かったのですから、確かに詩人は一時期ブームになったとしても恒久のベストセラーは期待できないですし、いろいろ工夫なさってるみたいですよね。でもこの物語のキモは「現実を知れ、そして納得がゆかずとも愛せ」という身も蓋もないような作者の言いたいこと(≠テーマ)ではないかと思うのです。
シャミッソーの『影をなくした男』(岩波文庫)と読み比べても、面白いですよ。

「赤い繭」:やや若い時期に書いたものを溜めておいたものなのか。少し構成に凡庸なものが目立つ。多分安部の代表作がそれだけ計算をし尽くされて、しかも印象深く描かれていた様子が余りに強烈なのでこれが凡作の羅列みたいに見えてしまう人もいるんだと思う。実際SF短編とか、この手のもの結構あるし、高校生でも考え付きそうなネタと展開が多いから。なんて思うのです。

で、安部作品はまだ「箱男」が積読の中に入っているので、どうするかが今後の課題です。


(多分)数多出ている安部公房研究書籍をまったく読んでいないので的外れな部分も多いと思いますが、とりあえず私の研究がてらの感想です。

(安部公房『壁』 新潮社文庫)

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by kou_ten_nen | 2013-02-19 22:33 | 読書

読書帳【過去日記】

読書も趣味だったりする。
最近は読書帳をつけている。積読は多分今の時点で30冊を超えている。でも、遅々として進まず。

ちとスマホ中毒なのがいけない。ここのアドレスはスマホにはいまんとこつなげてないけど、やっぱり電池が減るのが嫌スマホにこれ以上依存するのはいかがなものかと殊勝ぶってるせいだな。

研究のために買う本ってのは、資料として買う本とは違う。
私は小説書くとは言っても素人だから、プロの本(まあ、純文学とかが多いけど)も研究のために読まなければならない。

だから、これから読書帳の内容をここに上げるときには少しルールを設けて書く。

[研]………研究用
[資]………資料用
[薦]………人から薦められた書籍
[流]………思いつきで購入した書籍
[他]………そのほか、お遊びなど

このどれかを感想文の前に項目として載せておく。

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by kou_ten_nen | 2013-02-11 20:00 | 読書