本日H27.7.3読了。もう少し煮詰めてからアップしたかったのですが、どうしても今日書きたくて。
久しぶりに読書文の投稿です。
いやはや、今から思うに、もう少し早く読んでおくべきでした。
トルストイの作品は『戦争と平和』が有名ですが、『アンナ・カレーニナ』もまた代表作の一つです。
この作品は最近ではロシアの女子フィギュアスケーターのリプニツカヤ選手が愛読書として挙げていますが、いくらなんでも十代の女の子には少し早すぎる内容かな、と、とっても簡単な光文社新訳文庫を読んでも思ったのでした。
私なら文筆趣味でもない限り、読者の対象年齢は30~40代で、できれば既婚女性を想定しますね。『戦争と平和』のほうはもう少し若い人が読んでも大丈夫だと思うのですが。
魅力的な貴族の夫人アンナは、若い美貌の将校ヴロンスキーに出逢い、道ならぬ恋に堕ちる。彼女の恋の行方は……、という内容なので、ちょっとゴシップ的な興味を持つ人が食いつく話かな、とも実際思うのですが、トルストイは文豪です。文豪ですのでただのゴシップ話では終わらせるわけもありません。
この小説はアンナの絶望的な恋物語と二本立てで不器用な青年リョーヴィンの成長物語も描かれているのです。
トルストイやドストエフスキーといったロシアの文豪は、不器用で自意識過剰で感性鋭敏な若者を描写するのがともかく上手です。このリョーヴィンという青年も、内気で要領が悪くいこじで頑固で実際には保守的なのに若者らしく進歩的なものを見たがり、鬱陶しいまでに自己や自己の抱える様々なテーマを頭の中で逡巡し、無節操なモノローグを物語中にまき散らす天才です。作中で他の登場人物や或いは地の文で何度か彼の明晰な頭脳について触れられていますが、このフォローがなかったらいわゆるちょっと残念な人、というレッテルすら貼られかねない人です。
リョーヴィンとアンナはどういった関係かというと、まず、アンナの兄にオブロンスキーという人物がいます。この奥さんはドリー(ダリヤ)という女性で、ドリーに二人いる下のほうの妹がキティ(カテリーナ)といい、このキティの夫がリョーヴィンとなります(物語の開始ではまだリョーヴィンはキティにプロポーズすらしていません)。つまり親戚関係ですね。
ところが、昔の貴族社会ではありがちなことなのですが、いくら親戚同士とはいっても、交友のある人とない人はいるわけで、作中でアンナとリョーヴィンがきちんと対話をするのは一度しか機会がないのです。二人を取り巻く社会はそれぞれ異なっていて、アンナがヴロンスキーとの恋愛により社交界を追い出され、孤独になっていく一方で、片田舎で要領の悪い地主生活を送っていたリョーヴィンは憧れのキティと結婚を遂げ、息子も授かり、よい親戚の中で多くを学んで次第に幸せを掴んでいくのです。
物語のタイトルではアンナが主役のように描かれていますが、ストーリーの始まりも締めくくりも、ほぼリョーヴィンサイドが展開されていますので実質この物語は『コンスタンチン・リョーヴィン』であるべきではないかと私は思うのですが、これがまたそういった意味のお話ではないのですね。
物事は、当たり前のことを当たり前に接していたのでは、人は大抵の場合、何にも気づきません。一分間に何回呼吸するかも、空気の成分も、気温も湿度も、「はた」と気が付く瞬間がない限り私たちは意識しないのです。
当時のロシアの人々がリョーヴィンサイドの物語だけ読んだら、何の感動もなかったのではないかと私は思うのです。なぜならばリョーヴィンの思索は深く堂々巡りを続けていて大変に面倒くさくしかも空の雲のように刻々と姿を変えていきます。読み方によっては退屈な人物のありきたりな行動を描写しているだけで何のドキドキ感もありません。
そのドキドキ感がないのがロシアの日常であり、ありきたりの平穏なのです。その平穏はどのように人々が認識しているのか或いは空気として消費し続けているのか、人々は己を振り返るようなことはないのです。
しかしアンナの存在は、非日常です。物語でロシアの日常を代表する常識的人物として位置づけられているのがリョーヴィンの義姉でありアンナの兄嫁であるドリーなのですが、このドリーの深い友情をもってしてもアンナはどうしても浮いてしまう存在です。アンナの恋愛は常に力強い自由であり、その感覚は時代を間違えた自由であり、それがアンナを滅ぼすのですが、ドリーはアンナを深追いせず、また恨むこともしません。それでいて、ドリーを、リョーヴィンを、キティを、総ての人々を包み込む、アンナのいない終盤の空気は何と美しくのどかなことかと感動を覚えるのです。
アンナは悪女だったのか、という議論もあります。
しかし何でもそうですが、時代を間違えた人というのは得てしてその場ではひどい汚名を着せられたり罵られたりするものです。しかし21世紀の今、アンナ・カレーニナの生き方を選択するような女性はむしろ古典的で少数派です。なぜなら現代のわれわれならすぐ気づきます、物語中で本当に何度もやり直す機会がアンナにはあったのです。ヴロンスキーはどんなに美しく優秀でも、夫とするには足る器がなかったこと。あまり容姿の良くなかった夫のカレーニンは、しかし誠実で真面目な人物であったこと。ヴロンスキーとの生活は浮ついて贅沢なばかりで、全く現実感や落ち着きがなかったこと。
この貴重な数々の経験からくるたった一つの回答を壊れていきながら悉く無視し、最後にドリーと物別れに終わった瞬間で、もう彼女には何も残っていないことに読者は気付かされます。
私はこの読みやすい、光文社の古典新訳文庫しか読んでいないのですが、作者トルストイは第四章あたりの段階で早くもアンナに嫌気がさしていたのではないか、と少し思うのですね。ヴロンスキーとキティの描写にかなりの差が出ていることからもちょっとそれを感じてしまいます。
個人的な好みを言わせてもらえば、私はどうもこのキティは好きになれません。悪い子ではないしリョーヴィンには意外とお似合いなのですが、ちょっと見かけだけの落ち着きのない末娘といった感じで、このキャラクターは『戦争と平和』のナターシャにも通じる可愛らしさなのですが、もうここまでくるとトルストイの好みなのかなーとか穿った考えに至ります。
ヴロンスキーも、本来はただの愛人の立場ですのでもう少し単純な人物塑像であったはずなのですが、物語の都合上、いろいろと後手後手で練っていった感じがして、どうにも安っぽい(アンナサイドの物語で、アンナが作者の当初の予想を超えて勝手に動きすぎた結果かなとは思いますが)。そしてヴロンスキーにトルストイの筆は、冷たい(笑)。
しかし、アンナは物語の骨子を成す大事な人物なので粗末には扱えない。そういった苦悩が《解説》で訳者の望月哲男氏が「複数のプラン/複数のアンナ」の中にトルストイのこっそり思考としてちょっと忍ばせていたかどうかは、私は知りません。知りませんが、そうだったら面白いなあと思うのです。
なお、この長編小説において私がもっとも心に残った台詞を最後にあげて、今回ちょっと長くなりましたが読書文を終えようと思います。理由は敢えて書きません。
三巻、第六部16章。心から血を吐くような、ドリーのモノローグです。
「これはすべて何のためだろう? こんなことをしていて、いったいどうなるのだろう? わたしのように、ひと時も休むまもなく、妊娠して、授乳して、いつも苛々して、愚痴ばかり言って、自分も苦しめば人をも苦しめて、夫に嫌われて一生を過ごした結果として、育ってくるのは不幸な、育ちの悪い、貧しい子供たちじゃない。(中略)結局わたしは自分の力で子供たちを一人前にすることはできないで、卑屈な思いをして人の世話にならなくてはいけないのよ。いちばん幸せな場合を想像してみても、もう一人も子供を亡くさないで、何とかわたしが育て上げることぐらい。せいぜい子供が不良にならないくらいで上出来だわ。それくらいがわたしに望めること。たったそれだけのために、どれほどつらい、苦しい目にあってきたことか……一生が台無しだわ!」
レフ・トルストイ/望月哲男 訳『アンナ・カレーニナ』光文社新訳文庫